アトリエ便り 2018年

2018/10/1 神無月の話

 10月(旧暦)は、全国の神様が出雲大社に集まって大国主命(おおくにぬしのみこと)の元で来年の事を決める月です。
そのため神様のいなくなった地方では、10月を神様がご不在なので「神無月」と言います。
一方、出雲の国は神様サミット主催地なので「神在り月」と呼びます。

 出雲地方では、神様をお迎えする神事が行われ、おもてなしの日々が続くといわれています。
全国からやってくる神様たちは、国譲りの舞台となった稲佐の浜でお迎えを受けて、大国主命が待つ出雲大社に御神幸をされます。
この行事には、神様を私たち人間がもてなすという原点があるのですが、私はずうっと素晴らしい発想だと思っていました。
ことさらに「おもてなしの心」とPRをしなくても、和の心の中には目の力だけではとらえられない、自然や神へのもてなしの心が太古より育まれていたのです。
さぁ、神様たちは平成の終焉にむけてどんな会議を開くのでしょうか?
新しい年への思いをこめて、みなさんも神無月を過ごしてください。

 さて、出雲の国に神様たちが集まる10月(旧暦)にお留守番をするのは七福神の中のお一人「恵比寿さま」です。
「恵比寿祭り」を行う地方では春になると、一家繁栄や商売繁盛の願いを込めてお供えものをしてお祭りをしたと伝えられています。
この時、恵比寿様にお供えをしたものを元手に御稼ぎに出かけ、秋になると富をたずさえた恵比寿様が帰ってきて、一家に富を与えるのです。
10月は、小さな恵比寿さまのお姿を祭って、何か御祈願をしては如何でしょうか?
(でも、欲張らないでくださいね)

 菊かおる季節、紅葉を愛でながらグルメも楽しみですね!
自然の移ろいの中で、今月もお健やかにお過ごしくださいね。

 門を出れば我も行く人秋の暮。
  与謝野無村

 写真は9/22の月です。満月の前、十二夜月が見れました。

2018/9/6 新刊本を紹介させていただきます

 今月、ナツメ社さんから「いちばんやさしい、四柱推命」が出版されました。

その内容は説話社さんの「占いHappy Web ココロの図書館」で紹介されています。
概要は下の図にリンクされているページに、書かれている通りです。
興味を持たれた方は、どうぞ一度ご覧ください。

2018/9/1 長月きたる

 一年の中でも最も月が美しいとされる季節がやってきました。
「月見月」ともいわれる9月は、十五夜の月はもちろんの事、日を追うごとに満ちていくのぼり月の頃から、雨の夜や雲で見えない月にさえも「雨月」「無月」と名付けて、雲の中に或いは雨の向こうに浮かぶ名月を愛でたのです。
「観月」「雪月花」など、月を神秘的で風流なものとして大切にしてきた文化が言葉の中にも残っている中で暮らしているのは、とても幸せな事だと思います。
その他にも音楽や文学の中に登場して、ドラマの主人公に修飾語にまさるアクセサリーを果たしてくれるのも月の効果・・・。
そんなふうに思うと、今月は毎晩のように月を眺めるのが習慣になってしまいそうです。

 占いは「生涯の運気」、「ここ10年間の運勢」、「3年間」、「一年間」、「一か月」、「今日の運勢」と、占う期間を限定して、その間の運勢を占う方法があります。
長いスパンに及ぶものは、動きが遅い惑星を使って判断するのです。
一方で月のように、毎日の位置や見かけの姿が変わる星は動きがとても速いので、「今日一日」の心理と行動の傾向を占う時に、月の姿と自分の星座をリンクさせて、メッセージが誕生します。
特に新月・上弦の月・満月・下弦の月との関係は何等かの心の変動がある時として注目します。
私がテレビ朝日のGOGO星占いに掲載している「毎日の運勢」は、月の動きと星座の相関関係に基づいて作成しています。
天からダウンロードされてくる月の声と思いながら見ていると、月をとても身近な存在に感じるかもしれません。

 さて、9/23(日)は秋分の日。
太陽が真東から上がって真西に沈む日で、この日を境にして冬至まで次第に夜の時間が増えていきます。
静かな夜に物思いにふけるのも素敵ですが、少し淋しいような気もしてしまいますね。
あなたは、どんな風に秋を過ごすのでしょうか・・・。
月映えのする美しい晩に、自分の内面に問いかけてみるものまた好いことと思います。

 いずくにも今宵の月を見る人の
 心や同じ空にすむらん
              藤原忠教  

 あなたと同じ月を見上げることがありますように。

*写真は今年の7/26夕方、立山みくりが池に写る月です。友人が写しました。


2018/8/1 葉月

 8月に入り、暑さの峠を越えて秋への橋を渡る月がやってきましたが、先月は大きな自然災害がありました。
西日本ならびに九州地域でご被害を受けられた地域や皆様のご痛みに、心よりお見舞いを申し上げます。
 さて、旧暦の八月一日は「八朔」(はっさく)です。
これは、毎月の初日にあたる日を朔の日と呼ぶことに由来しています。
新暦を採用している現代では、おおよそ九月初旬から中旬くらいの期間をさします。
この時期は季節の変わり目でもあり、実りと共に台風の被害に見舞われる期間でもあるので、昔各地では「田の実の節句」を行い、新米を神様や知人に贈って祝ったと言われています。
その風習のなごりが、八朔に親しい人どうしが贈り物をし合う、今でいうお中元になったのです。
形式的だとか、もう古臭いという人もいますが由来を考えると、ものを贈り合うこの風習はすたれず、これからも続いていってもらいたいと思っています。
 八月といえば、十三日はお盆です。
私の実家ではお盆になると盆花を供え、寒天で作った鏡やら、香りの良い果実とご先祖さまへの御膳をしつらえて故人をしのんだものでした。
これは、明治生まれの祖母に子供の頃聞いたことなので記憶はやや不鮮明ですが、お盆という字は「盆」の字を上と下に分けると「皿を分ける」と書くので、家族の皆で食べ物を始めとして、色々なものを分け合う。
そんなことをご先祖さまが教えてくれる大切な日なのだということでした。
このページを見た人がお一人でもこのささやかなコメントを心にとめて、お盆には、ご先祖への感謝の気持を思い出してくださると嬉しいなぁ、とそんな気持ちを込めて今、タイピングをしています。

 さて、これは全くわたくし事ですが、7月にハンドバッグ置忘れ事件を起こしてしまいました。
ところは、某駅のベンチ。
ハンドバッグの中には、現金・カード類・身分証明証・ICカードを始めとして思い出してもゾーーツとするようなものが一式入っていました。
なかば諦めてもいましたが、運を信じ、連絡を待つこと暫し・・・。
その後、駅員さんの手により、届けられて保存されているのが確認されました。
 この話をすると「日本は良い国ですよね」「さすが、日本ですよね」と言われました。
改めて実感!
でも、もう、二度と置忘れをしなようにしなくては ・・;
この事件は「2018年夏、ハンドバックの乱」として記憶にとどめておくことに致しました。
 まだまだ、暫く暑さが続きそうです。
どうか、ご自愛くださいね。

 写真メモ
今年の夏は、まだどこにも出かけていません。
これは一昨年、立山で写したものです。

2018/7/1 文月きたる

 なんやかんや言っているうちに7月がやってきた。
しかし、なんやかんやの内訳は「言い訳」「寝言」「戯言」この三つの繰り返しだとしたら余りにもずさんだ。
でも、たぶん年明けから本日までの言葉中、20%はこの類のものがあるに違いない。
みなさん、ごめんなさい。
一年間の折り返し点でお詫びしておきます。
ただし、仕事は真剣勝負でやってきましたのでご安心を。

 さて、7月に入ると各地で、山開き、海開き、川開きが行われる。
現代では、山や海開きといえばレジャー解禁日としてイベント化してはいるものの、少し前の時代までは、大自然や神様、また或いはご先祖への畏敬の気持を籠めての神事だった。
中でも富士山は霊峰として信仰を集め、昔の人は神様への敬意と死を覚悟する心かまえから白装束を身にまとって登拝したのだそう。
富士山は、命がけで気を引き締めて臨まないと、頂上までいくことが困難な山だったのだ。

 

 確かに大きな自然界を相手にした時の人間の力はなんと無力なことか・・・。
抗うことができない自然との闘いと尊敬。
そこに、祈りが、魔除けや厄除けが生まれても何の不思議もない。
川開きの時に花火を上げるのは元々、精霊流しと遠くにいるご先祖に向けたものだったという。
どーーんという轟音と共に一瞬にして、夏の大空を覆い尽くさんばかりの火の花は、永劫の彼方にかかる橋のようだ。

 今年の花火はどこで観ようかなぁ。
それも良いけれどやはり土用があるので、まずは食欲に走って“うなぎ”かな?
今度来る土用丑の日は7/20と8/1、浴衣を着ていくのも良さそう。
七代目市川団十郎好みの “かまわぬ”が粋かしらね。
それにしても、今年は鰻が高騰しているので「おうなぎ様」とお呼びしようかしら。
「風鈴のひとつ鳴りたる涼しさよ」 虚子

*今日7/1は富士山の山開き、写真は5月末、夏を待っている富士山です。

2018/6/2 水無月の庭

 雨に紫陽花の季節がやってきた。
季語を並べてもかたつむりやら菖蒲など雨と相性の良さそうなものばかりでやや湿っぽい。
しかし、後半には夏至を迎え、本格的な夏がやってくる。
この切り替え月が6月だ。一年間の折り返し点というのも合点がいく。
 枕の草子によれば、
「夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ蛍のおほく飛びちがいたる。また、ただ、ひとつ二つなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし。雨なども降るもをかし。」
“夏は夜がよく月の出る頃はもちろんのこと、月のない闇夜もまた蛍がたくさん飛びちがっているのがおもしろい。
また、それが一匹、二匹とほのかな光とともに飛んでいくのも良いものだ。
それから、夏の宵には夕立の雨もおもしろく心ひかれるものがある“
「春は曙。夏はよる。秋は夕暮れ。冬はつとめて(早朝)。」
ともかくも、四季おりおりの風情を感じながら感性豊かでいる方が楽しそうだ。
雨をうらめしいと思わずに“いとをかし”とばかりに愛でよう。
運勢は心がマイナーモードに入ってしまうと途端に負の要素にむかって磁石が働く、この法則はなかなか侮れない。

 

 さて、時間を逆もどりさせて5月の事になるけれど西の方から運命の神様の手招きがあったのか、京都との縁が深かった。
私は社団法人日本占術協会の副会長を務めているので、地方の支部に赴き支部会員のみなさんと交流をはかる役割がある。
こうした役割は会長を始めとして役員が手分けをして各支部へと出向き、意見交換を行っている。
 副会長になって初めての支部訪問の機会があり、その訪問先が京都だった。
緊張感いっぱいの訪問ではあったが、支部長をはじめとして会員のみなさんに歓待をして頂き、思いもよらず “雲龍院”へのご案内を受けた。
長らく京都に暮らしておいでの方ならではの選択か、大きな寺院の奥まったろにあるこじんまりとした寺院。
観光のベースにのっていないので静かな空間と時間が流れていた。
しばし、庭を眺め瞑想擬き?にふける。
玉水がしたたる軒下には草木がみずみずしく、その光景だけでも十分に絵になった。

 日付は変り5月30日には、魚山三千院門跡にて“御懺法講”がおこなわれ、いみじくもその席に着かせて頂いた。
二時間あまりのことではあったが、荘厳な時空の中にいると「ここはどこなのか?」と錯覚がおきてくる。
しかし、凡夫のあさましさか・・・だんだんお腹がすいてくる自分が情けない。
困ったものだ。
お釈迦様ごめんなさい。

 ともあれ、去年の6月は生き死にの間ざまにいた事を想い起こし、今日元気でいることに感謝しよう!
「蟷螂(かまきり)や五分の魂是(これ)見よと。」 小林一茶

2018/5/2 皐月の杜

 5月に暦が変わったので、植物の変化を観察しようと思いたち、小石川植物園まで出かけた。
親しい友人と森林インストラクターさん、そして私、四人での散策。

 まずはランチのお店を見つけようと、住宅街の中にある可愛いお店を発見。
ワインと昔懐かしい感じがするサンドイッチで乾杯していると、なんと招かざるゲストがやってきてグラスに飛び込んでしまった。
ブーーンと羽をばたつかせているので、ここで救助の手をさしのべれば何とか救出できないとこともないけれど、今度はこちらが危なくなってしまう。
ゲストの正体はキイロスズメバチ、そのままワイングラスの中でおとなしくして貰うことにした。
明治20年頃、神谷傳兵衛(かみやでんべえ)によって始めて世に出た“蜂葡萄酒”なるものがあるそうだけれど、この日の私たちも蜂葡萄酒体験をしてしまった。

 

 小石川植物園はその昔、養生所だったことからか、歩いていると自然に健康体になってくるような雰囲気がある。
樹木や草花、鳥や虫たちは、自然界から遣わされた医師や看護師。
セラピー・リハビリの専門家なのだろうか?
一緒に歩いていると、いつもオーバーワーク気味の女の子のあくびが始まった。
「あーー気持ちいい。ねむーーい」
そのノンビリした心地よいあくびに一同、連られて「あーー眠くなってきたーー」
その後、この眠け半分の御一行様は、池のカエルの挨拶を受けてやっと心身にパワーをチャージした。
門を出る頃には、心の電池交換もすっかり完了。
心なしか?美人になった気持ちになってしまった。


 時折こうした時間を持つことでセルフメンテナンスができるのだから、5月は新緑の中に出かけることをオススメ!
心の免疫力が高まれば、悩みは自己治癒力で解消できますよ!

2018/4/1 卯月、花の贈り物

 入学 花見 長閑 紋白蝶 春眠 桜 朧月 歳時記の本を斜めに眺めているだけで季節からやってくる目印を目にして楽しい気持ちで満たされる。

 季節からの贈り物は、どれもこれも素敵なものばかりだけれど、春のギフトはドカーーンと大きな花束が届くのでとりわけゴージャスな感じがしてしまう。
 最初に梅が咲き、続いてあちらこちらで辛夷(こぶし)が蕾をほどき満開を迎えるころ、これでもかといわんばかりに桜の洪水が押し寄せてくる。
風の中にツーンとした香りと妖艶な匂いが調香されているこの頃、時間も空間も忘れてしまうような浮世を離れた気持ちになる。

 桜の花が五分咲きくらいの時には、友人や恋人と眺めながら楽しい会話とシャンパンが合いそう。
でも、満開の桜はひとりで見るのが似合うような気がする。
ぼんやり風でも、高揚感でもなく、綺麗とか美しい等、どの言葉をもってしても表現できない・・・。
桜はそんな世界につれていってくれる。
“人は秘かにどこにも属さない自分に憧れている”私は、春がやってきて桜が咲くころになると、毎年同じようにそんなことを思ってしまう。

 四月は十二の季節の中で秋に匹敵する浪漫の月。
ご乱心で仕事が疎かにならないかと、やや心配ではあるものの、しばし現実から離れた心の部屋で、散り際のはなびらにまみれながら過ごしてみたい。

 ねがわくは 花のしたにて春死なむ 
  そのきさらぎの 望月のころ 

 この歌を詠んだ西行法師の心持ちを察するに、静かで穏やかな春の光に抱かれながら、幸せで満たされていたにちがいない。
人は、金銭や物質的幸福のみならず、花鳥風月に感ずる気持を研ぎ澄ませることで容易に幸福感を手に入れることができる。
自然界からの恩寵に感謝したい。


【写真】
3月の終わりに夜桜を楽しみました。
神田川は花筏、そして椿山荘の庭園です。

2018/3/1 弥生のスタートと一念発起

 気がつくと梅の蕾がほどけ、各地で摘み草の話題を耳にする季節がやってきた。
小学校の前を歩いていると卒業式の練習中らしく「蛍の光」を合唱する声が聞こえていた。
春愁も手伝って暫く合唱に聞き入り、その昔、幼稚園の卒園式で旅立つ園児たちとこの唄の練習をして、当日には泣きながら歌ったことを想い出した。
帰り道にそういえば、この名曲はスコットランドの民謡ということは知っているものの、どうして蛍の光と窓の雪が登場するのか、とても気になった。
気になることは、早く調べなくては!と。
 帰宅一番、鋭意調査開始というわけで春疾風も顔負けの勢いで調べてみたら、この歌を日本語に訳した方は稲垣千穎(いながきちかい)という詩人であり歌人だった。

 

 「蛍の光」は、晋の時代、家が貧しいが故に明かりをともす油が買えず、夏には薄い布地で縫った袋の中にたくさんの蛍を入れて、その光の元で勉強をした苦学生の辛さを。
「窓の雪」は、冬になると窓辺に積もった雪あかりで書物を読んで勉強に励んだという、同じく苦学生の切磋琢磨を。
蛍の光は、晋書(しんじょ)。
窓の雪は、蒙求(もうぎゅう)で元来は別々の故事。
この二つを組わせて日本語に訳した、訳者もまた蛍雪の功をなした人に違いない。
 現代においては、考えられないことのひとつとはいえ、情景が浮かび何だか背筋が伸びてしまった。

 

 「春眠暁を覚えず・・・」とばかりに朝寝坊を楽しむ例年の春を卒業して、この春はシッカリ始動モードに入らなくては!
なにしろ、フランスの作家、ラ・プリュイエールによれば「人生には三通りの事件」しかないのだそうだから・・・。
生まれる・生きる・死ぬ。
生まれることは無自覚で、死ぬ時には大いに感じるものの、生きている事は忘れているそうな。
弥生のスタートと同時に一念発起。

 

 写真は、おそらく野鳥が我が家に運んでくれた(と思います)種から育ったカタバミ。

可愛いですよ。

2018/2/1 今日から如月

 一年中で一番の厳寒期。
でも、風の中には春の香りがほんのり・・・。
肌寒い公園を歩いて、大自然が調合している早春の香りを楽しみながら「幸せってなんだろう?」とふと考えてしまった。
あれこれ想いを巡らせながらも「幸福か不幸か、などどいう観念が少しも浮かんでこない時が、一番幸福なのではないかしら」そう思いながら。
では、どんな時にそんな感じになるのだろうか?
と目の前の白い梅に問うてみた。
 早咲きの梅は、優しくも妖しい香りを漂わせ
「夢中になっている時かもしれないわねえ」
といわんばかりに私の目を奪ってくる。
この無言のやりとりを通訳する精霊がいたら、きっと
「余計なことを考えないで春の兆しに包まれながら暫し我を忘れるのが幸せというものなのよ。理屈や御託を並べていないで、感じてごらんなさい」
と、梅の肩を持った訳をするに違いない。
 なにもかも忘れて、夢中になっている時は誰でもその心の中は赤ちゃんのように無防備、隙だらけでなにも飾っていない。
最高に自分らしくなっている。
自分らしく生きるためには、お金も時間も食事も睡眠も、周囲の人間もすべて念頭から消え去った状態に没入する時間を得ること。
幸せの極意は、夢中になることからやってくる。

 この日は、梅の魔力に惹かれて「夢中」の時間がながく続いた。
まさに夢の中。
帰りがけにふりかえると心なしか、梅の花がより一層白さを増していたように思えた。

 そういえば、と・・・急に思い出したのは
「花が花の本性を現じたるときもっとも美しくなるが如く、人間が人間の本性を現したるときは美の最上に達するものである。」
 大正から昭和初期の哲学者、西田幾多郎の言葉だった。

 今日から如月がはじまる。


❤2018年1月1日  新年のご挨拶

 

 あけましておめでとうございます。
新しい年があけました、今年も宜しくお願い致します。

 2018年最初の提案です。
“運命はいつも自分の掌中にある。”
新年そうそう縁起でもないけれど「一寸先は闇」という言葉があります。
人間の未来、これから先の運命は予測できないといった意味で、人生に対する不安や絶望など否定的な言いまわしで使われてきました。
しかし、「一寸先は闇」はもっと、肯定的にとらえても良いのではないかと思います。
つまり、人生なにがあるかわからない!
どんな素晴らしいチャンスが巡ってくるか未知数、というふうにも解釈できるのです。
しかし、元々自分に与えられている資質は知っているにこしたことはありません。
本当に自分のことを良く映し出してくれる鏡があればどんなにありがたいことでしょう。
そこで、占いと自分自身の中に眠る感性が大いに役にたつのです。
今年は自分の気持の中にある感性を良く磨いてみてください。
感性は鏡の役割を果たしますから、レッスン次第では素晴らしいコンパスになる可能性があります。

 イギリスの劇作家であり随筆家のスティルは「すべての人は自分の運命の創造者である」と語りました。
あなたもその一人でありますように。
本年、あなたに大いなる自己実現がありますように。